映画の物語は、直線的な時間軸によって描かれるとは限らない。例えば、クエンティン・タランティーノ監督の『パルプ・フィクション』は、時系列を解体した複雑な物語構成でありながら、観客の脳内で物語が時系列通りに再構築されてゆくという作品の代表格。その源流には、“視点が変わると見え方も変わる”ことを提示してみせた、黒澤明監督の『羅生門』がある。
この映画では、複数の登場人物の視点でひとつの出来事を語ることで矛盾を表出させ、事件の真相に対する整合性を欠いてゆく。何が真実であるのかを混乱させるこの演出は、<羅生門スタイル>や<羅生門効果>と呼ばれ、数多の作品で踏襲されてきたという歴史がある。『愚か者の身分』もまた、3人の登場人物ごとに章立てることで、“視点が変わると見え方も変わる”という物語構成になっている。そして、バラバラだったはずのエピソードが観客の脳裏で再構築され、ある真相に辿り着くという物語にもなっている。
とどのつまり、本作においても、ぼやけていた物語の全体像が徐々に明確になってゆくという構成である点が重要なのだ。それは、永田琴監督が細部においても“全体像が徐々に明確になってゆく”という演出を施していることにも起因する。
例えば、逃走の果てに辿り着いた安宿の浴室で、綾野剛が北村匠海の髪の毛を洗うくだり。この場面では、まず洗髪する手元を映し出してから、ふたりの全体像が映し出される。ふたりが全裸であることを後から見せることによって、“可笑しみ”が“慈しみ”に変換されているのは見事だ。
本作においてショットを見せる順番はとても大切なのである。また『愚か者の身分』では、何かを“食べる”ショットを繰り返し描いていることも窺わせる。奇しくもこの演出は、物語に対して「生きることを諦めない」という強さを伴わせる由縁にもなっている。“食べる”ことは即ち“生きる”ことに繋がるからだ。それゆえ、世代の異なる3人の男性たちが、“生きる”ことに対するバトンを下の世代に渡してゆく姿に私たちは心震わされるのだろう。
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