主演を張るとはなんなのか。
それを『国宝』で今一度考えていた。華やかだが影があるから惹きつけられる役者。吉沢亮にはそんな言葉が似合う。
本作の主人公・喜久雄は間違ってもイイ男とはいえない。女形の稽古をする際は一心不乱で、歌舞伎に向き合う姿はプロフェッショナルそのものだが、役を掴む為には女性まで利用する男だ。なのに目が離せない。劇中、東半コンビが窓際でインタビューを受けるシーンでは、横浜流星演じる俊介が堂々と話す横で、伏し目がちに微笑むだけで喜久雄という人間の内面が見えてくる。普段はきっとつまらない男だと。それなのに目が離せないのだ。
今まで多くの映画で吉沢の演技を観てきたが、『国宝』の喜久雄はまさに彼にしか表現出来ない役だった。台詞がなくとも佇まいだけで不思議な存在感を放ち、熱さをあまり感じさせないのに、“底なし”の吸収力を持つ喜久雄を演技で体現してみせる。キレると瞬時にヤクザの息子の顔を見せ、女性にも、さらには娘にさえもどこか冷めた視線を向けるまで作り上げる俳優。神社でのシーンで「悪魔はんと取引しとったんや」と幼い娘に語る彼の目は、まさに悪魔的で背筋が寒くなるほど美しかった。
思えば喜久雄が唯一愛した人間は俊介なのかもしれない。ひとりで初めて板の上に立つ日、緊張のあまり上手く化粧が出来ず、俊介に化粧を施してもらっている時の、唇を震わせ目を潤ませたあの顔は、心を許した恋人か親にしか見せられない表情だった。
そして俊介との「曽根崎心中」は、真の恋愛としか思えないほど切なく美しく狂おしかった。二人の関係はまさに陰陽で、二人でひとつの存在としてあった。言うなれば喜久雄が陰、俊介が陽。その関係が喜久雄の成功とともに変容し、離別を経て再び陰陽へと戻っていく。その変化の軌跡こそ、本作が多くの人の心を掴んだ理由だと思っている。影を自在に操る吉沢亮と、その呼吸に合わせて演技を変える横浜流星——それは抜群の相性だった。
ちなみに持論だが、役者は影が大きいほど魅力的。それこそ魔力とでも言うべきか。吉沢亮はそれを内側から放出する力を持った役者だと、私は思っている。
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