異質さを滲ませながらも“そういう人物なのだ”と、観る者を自然に納得させる力——。
二階堂ふみが『遠い山なみの光』のなかで生きた佐知子という女性には、終始、異質さが見え隠れしていた。演技にはさまざまなアプローチがあり、溢れんばかりの感情を解き放ち観客の感情に重ね合わせる役もあれば、感情をひた隠しにすることで繊細な感情を際立たせる役もある。今作で二階堂が臨んだのは後者側になるが、さらにいくつものレイヤーが重なっているのが佐知子の特徴。演じることは相当に難しかったはずだ。
戦後、長崎からイギリスへ越してきた悦子の半生を、彼女の娘ニキがたどっていく回想のなかで、佐知子は悦子と出会うハイカラな女性として登場する。悦子の家族構成や結婚生活、戦争体験が語られるのとは対照的に、佐知子のバックグラウンドはほとんど明かされない。一人娘を連れてアメリカ人と渡米するのだと“未来”は語られても“過去”は分からない。悦子にとって憧れのような存在であり、憐情を向ける存在でもあり、さらには物語の世界を俯瞰する存在でもある。彼女の視線の先には何があるのか、彼女の言動にどんな意味があるのか、異質さという言葉では到底片付けられない演技は実に見事だった。
この物語にはいくつもの“嘘”が散りばめられている。その嘘をラストまで浮かび上がらせないことも二階堂に委ねられた。たとえば、悦子と佐知子の2人が会話をするシーン、海の見える稲佐山の展望台で希望を語り合う演技が素晴らしい。「私たちは似てるもの、とっても」というセリフ、その後も連帯を感じさせる会話が続くが、実は悦子の心の声を代弁している——と捉えると、必要な異質さを保ちながらナチュラルに悦子と重なり合う。
そして、嘘が何だったのか、秘められた謎を知ったうえでの二度目の鑑賞では、佐知子の存在そのものが悦子の感情として置き換えられ、より感動が深まるという仕掛け。二階堂ふみの、役への底知れない理解力と感情を具現化する演技力に震えた。
授賞式典